「チャンポン」

昭和35年3月卒

南九州市 福元清郎

 私が母校の鹿児島盲学校に在学していた頃,学校の近くにうまいチャンポンを食わせる食堂がお目見えした。最初,生徒の誰かが見つけてきたのだろうけれども,たちまち評判になり,上級学年の男子生徒がよく通っていた。私も卒業するまでの3年間ほどをよく通った。

 その食堂は,中年夫婦,といっても,おばさんが一人で切り回しているチャンポン専門店で,われわれは,俗に「チャンポン屋」と呼んでいた。店の奥は,右側が土間続きの帳場で,左側に経営者の居間があった。盲学校の生徒は,親しくなりすぎて,居間に上がり込む者も多かった。

 私は,寄宿舎に入っており,その年は4人部屋であった。12月の寒い夜,部屋の4人だけでチャンポン屋へ繰り出して行った。その夜に限って,盲学校の生徒は他に誰も来ていなかった。

 われわれ4人は例によって,居間に上がり込みおじさんと談笑しながら箱火鉢を囲んでチャンポンに舌鼓を打った。そして,意気揚々と引き上げた。

 もう,消灯時刻も過ぎた後のことである。私に面会だといって,寮母さんが呼びに来た。私は,そんな時刻に面会に来る人の心当たりもなかったので,半信半疑で夜の通用口へ出てみると,チャンポン屋のおばさんが待っていた。われわれが引き上げた後に,気付いたらしいのだが,居間に置いてあった4千何某かの金が無くなっていたという。その頃,私は親からの仕送りが,月に2500円だったと記憶しているので,4千幾らという金は,かなりの大金だったろうと思う。

 チャンポン屋のおばさんが,その話をなぜ私だけに持ってきたかというと,4人の中では,私だけが全盲であったということ。それに,もう一つは,おこがましい話しだが,その年私が生徒会長をしており,そのことをおばさんも知っていたため,真相はともかくとして,それなりに信頼できる人間だろうとふんでのことたったようである。

 私は,とっさのことで,「それでは内輪でどうにかしてみますので,公にはしないでください」といって,おばさんと別れた。しかし,内輪でどうにかすると言ったものの,こればかりは一人でどうできるものでもない。幸い寮母さんが,近くで待っていてくれたので,話しだけでもしてみようと,打ち明けているところへ,舎監がやってきて,「今話しを聞いた。君は,すぐ部屋に帰れ」ということであった。

 チャンポン屋のおばさんは,私と別れた後,舎監のところにも立ち寄ったらしく,舎監には,千円札や500円札,あるいは100円札がそれぞれ何枚と,詳しい説明をしたとのことである。その時の舎監は,学校の教頭先生でもあった。

 それから2時間ぐらいだっただろうか,舎監と寮母さんの2人で,我々のいっさいの持ち物検査を行った。それでも,疑惑のものは出てこなかった。

 翌朝,舎監が先方に出向いて,「不祥事でもあれば,学校としても何らかの処分をしなければならないけれども,不祥事が出ない以上,どうすることもできない。それでも,納得できなければ,警察沙汰にしてもいい」と話した上に,「店のお客を自分たちの生活空間でもある,居間にまで上がらせたというお宅にも落ち度があったといわれてもしようがないでしょう」とまで踏み込んだと,後で聞いた。聞きようによっては,開き直りともとれる話しぶりである。

 その後,その話は真相のわからぬままに立ち消えになってしまった。学校にも動きはなく,警察が動いた様子もなかった。

 もし,先方の言い分が本当なら,泣き寝入りということになったのかもしれない。そうなると,我々の側に容疑者がいたかのようにも受け取られる。しかし,私を除く3人も,たとえ弱視とはいえ,盲学校の生徒である。そのうちの誰かがおじさんの居る前で,我々,仲間の居る前で,現金をくすね取るなどといった芸当が,はたしてできただろうかと思う。見えるところに置いてあったのであればいざ知らず,そのような大金をむぞうさに放り出してあったとも考えられない。そうだったとすれば,それこそ落ち度ものである。我々が,居間に上がり込む前に,何らかの形で無くなっていたものをたまたま,我々が引きあげた後に,気づいたということではなかっただろうかとも思う。

 おばさんが私を訪ねて来た時,その辺のところまで考えが及んでいたのであれば,話してみたらどうだっただろうかとも思う。

 私は,何も後ろめたいことはなかったので,その後も卒業するまであいもかわらずチャンポン屋通いを続けた。

 今から56年前の,私が二十歳の時のほろ苦い思い出である。

鹿児島盲学校同窓会会報第58号

(平成26年10月10日発行)より転載させていただきました。


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